「往く」と「来る」の概念

2018/01/05

易に「水山蹇」という卦があり、往くは足をとられ、待てば来る、という意を示している。

易経には「往」と「来」が頻出し、大川を渉るという概念も出てくる。

往くに関わる表現を横断的に眺めていると、ホームランドやコンフォートゾーンのようなものから出ることを「往」と表現している印象を受ける。

待つということはこれまでの活動の反復を指し、往くということは何かのプロセスを変えることを指すのだろう。

また、水坎や渉大川が示しているのは、既存のプロセスを大きく捨てることやリスクをとる、ということだろう。不確実性のあるプロセスに踏み入れることを指す。

易経は変転の書だから、総体として言わんとしていることは、時宜に応じてコンフォートゾーンを去りプロセスを変えることを推奨しているに違いない。

ただ、プロセスを変えるには前提の条件や状況がある。時々で抵抗と達成の成否が分かれるという見方は一貫している。

無為自然ではなく行動指針を提供するスタンスで描かれているのも、おそらく「いかに行動するか」という易経のテーマによる。 占筮に対する期待がそういうものだったのだろう。

国盗り合戦の時代環境を色濃く反映して「守り続けていれば今手にしている資産を維持できる」という仮定を廃し、生き残り策を求める姿勢がある。 競争環境はつねに変転しているため、“往"と"来"のどちらが有効であるかも時機に応じて劇的に変わっていく。

往は能動的な活動であるため、ある意味自明だが、“来"をどう捉えるかは難しい面がある。 たとえば「朋来」という表現は仲間が来るという意味だが、本当に来るのか? “来"に対しても能動的に関わるとすれば、期待値を上げるための努力をする、ということになるだろう。

既存のプロセスで有効な部分、あるいは打って出るよりはましな側面があり、ホームグラウンドのプロセスを強化することで存在感を高める、といった行動が易経における"no go"のスタンスなのではないか。

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