マルクス・アウレリウス『自省録』

2022/09/26

ローマ皇帝 マルクス・アウレリウスが長年にわたり書きつづった著作。

「皇帝としてどのように役割を果たすべきか」という行動原理をこの『自省録』を執筆するプロセスからひき出したのは間違いない。
そして、明白であることが基本原則として通底しており、相当平易な記述になっている。もう1800年以上も昔の著作にも関わらず、読んで意味のとれない部分などほぼ無い。

この書を後世の人が読む典型的な動機として、政治家や経営者といったリーダーが「五賢帝を見習いたい」というものがあるだろう。
『自省録』はその意図に応える。ただし読者がそこに見るものは、ミステリー小説におけるダイイングメッセージのようなものだ。

『自省録』は行動のアルゴリズムのみを抽出したものである。そこから教訓を得るには、マルクス・アウレリウスの事績と照合し、そのうえで有効な倫理を探り当てることが必要と言える。

マルクス・アウレリウスはベストを尽くした。しかし、『自省録』の記述を至上と仮定すると読み誤るだろう。

ワーキングペーパーとしての内省

『自省録』は、数学の途中計算式のようなものだ。そのような断章を羅列している。
現実の出来事に対して当時知りうる宇宙法則にもとづく解釈を与え、事実へのフィットを探る。たとえば、次のような顕著な文がある。

「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。( 4.7)

ギリシア語の原文はやや書き方が異なるが、大意は差しつかえない。ここで実際には、大損害を受けたイベントが進行しているに違いない。
損害の知覚は現に存在する。そしてそれを打ち消すことが適切であり、書き出し時点ではもっとも事象をよく説明するテーゼとして選択している。

しかし、途中まで書いたところで割り切れない感覚に着目し、捉え直しや補足を探る。しかし、他の法則が見当たらない結果として、パラフレーズになり切れない反復が起きたように読める。

各章を執筆した状況は様々であり、集中的に先人のフレーズを引用している部分もある。手元にリファレンスを用意できる環境は、多少の余裕がうかがえる。
一方で、戦地で記述したものや、この例のように明らかに切迫した場面もある。

マルクス・アウレリウスは行動や判断の選択にあたり、このようなワーキングペーパーを書き続けてきた。そのいずれもが出来事に比してあまりにも簡潔な点は特徴的だ。

自動筆記の側面

マルクスは、自分の中に指導理性(ト・ヘーゲモニコン)があると考えている。そして在位時代の『自省録』には自動筆記のような要素がある。
指導理性を喚起して書かれたものを見たうえで、日常のマルクスに戻り現実の行動に活用していたのではないか。

思索の根拠には、自らの考えのほか先人から伝授された知恵がある。
『自省録』ではヘーラクレイトスのような特徴的な思想については出典が明らかであるが、多くの場合には引用形式ではない。

一方で、自分の考えにしては反復形式が安定し過ぎている。かなりの部分が先人から習った具体的な形式の知識を呼び起こしているのではないかと思う。

つまり、自分の中にある普遍的な良識こそもっとも重要であり、素朴な感覚に自信を持てないシーンでそのつどト・ヘーゲモニコンを呼び起こした。
ト・ヘーゲモニコンは良識感覚ではあるが、普遍法則にしたがう原理なら安定したテーゼでもあろう。その結果、ストア学派の知識を反復する形式になった、というのが実情ではないか。

哲学より神学に近い

哲学・科学を懐疑精神だとすると、宗教・神学はヒューリスティックの適用と対比できる。
『自省録』の時代には哲学と神学は分化しておらず、科学的に見える記述のなかにゼウスやダイモーンが自由に登場する。

哲人皇帝として知られるマルクス。一方、『自省録』全編に書いているのは思考の拡がりを厳しく抑制するプロセスである。
この書は世界の認識を整理するものとして書いているが、マルクス自身に浮かんだアイディアは丹念に削除され、一切書いていない。

おお想像力よ。神々にかけていうが、あっちへ行け、お前がやってきたのと同じように。なぜなら私はお前を必要としないのだ。( 7.17

この点は論調にも表われており、懐疑精神を自然に沿わぬものとして意識的に排除している。

懐疑精神は、他の可能性と言いかえても良い。書いたこと以外の可能性を本人が知覚したタイミングが執筆のタイミングでもあった。
そのテーマに対して自然 = 宇宙 = ゼウスの法則にもとづく解釈を当てはめたのが『自省録』と言える。
法則とは先人から教授された授業のことだ。マルクスはそこから出ることがなかった。

過剰に反復しているテーゼと、完全に避けられている具体的主題の両面にこの書の意識が強く表れている。
本書の自省を現象学に当てはめれば、エポケーを意識的に取り入れたものと言える。しかし、次のプロセスが懐疑主義的な探索ではなくヒューリスティックの適用であった点から、信仰により近いものに見える。

痩せた現実認識

ヒューリスティックの限界は、簡略化により認識が痩せる点にある。
たとえば次のテーゼはかなり支障があるのではないかと見る。

この自然は各人に平等にかつ各々の価値に応じて、時、物質、原因、活動、事件等の分け前を与える。ただしこの際考慮すべきは、一つ一つのことが互いに平等であるかどうかということではなく、ある人に与えられたものが全体として他の人に与えられているものの総和に等しいかどうかということである。( 8.7)

そんなことはないだろう。

人生の出来事をトータルすると各人に等しい設計になっていると述べており、この保存則のようなものは全編の指針になっている。
そしてこの命題は「平等にかつ各々の価値に応じて」という表現でコンパクトに破綻している。平等を見出したい一方で、不平等も前提としている。

これは一種のトートロジーであり、この命題からはいかなる論理も導き出せないはずだ。にもかかわらず、マルクスは終生そこからの演繹を試みた。

彼の治世には、ペストや洪水、周辺民族の進行が続発している。
マルクスは原理主義的に解釈したはずだから、人の手に追えない事象に対して、そのつど諦観を確認したことだろう。

それは妥当な態度なのだろうか?

ただ一方で、信仰のヒューリスティックが思考を安定させている面が強い。
その後マルクスの子コンモドゥスが皇帝を継承するが、コンモドゥスは分かりやすい暴君であり、そこであえなくネルウァ=アントニヌス朝は終焉を迎える。

マルクス・アウレリウスにしても素材はコンモドゥスと同じようなものであったかもしれず、信仰の徹底が相当ベターな状態に留めた秘訣であった可能性も多分にある。

懐疑精神による思考の空中分解を戒めた面は、一定の効果はあるのだろう。

実務的な人間としての教訓

このように、マルクス・アウレリウスはスキルとしての思考停止を活用して、皇帝の職務をまっとうした。
幸いにも彼の時代には、神々に見える普遍法則にも一定の妥当性はあった。

いや、神々は存在する、そして人間どものことを心にかけておられるのだ。そして人間が真に悪いことのなかへおちこむことのないように、彼にすべての力を与え給うたのだ。( 2.11

たとえばマルクスが現代アメリカ大統領であったと仮定すると、同じようには考えられなかっただろうと思う。

象徴的に核兵器の発射ボタンは「人間が真に悪いことのなかへおちこむ」装置であり、それは複数の人たちの総意にもとづいて時間をかけて作り上げられたものだ。

『自省録』には自然の偉大さと人の卑小さを対比する記述も多い。当時はそのような簡略化は妥当であった。
現代では、人口爆発を含め自然と人とのバランスは劇的に変わり、ゼロサムゲームの時代になった。

自然=不自然の対比を考えたとき、人が見る不自然は第一に人工物である。
人工物が自然を蕩尽しうるという知覚は、近代産業化の産物であろう。

核戦争や気候変動など、人の知る自然を塗り変える要因は増えていく。

彼の時代には、不自然は自然に呑まれる程度のものであった。
今や世界の主体である不自然の方を考えるロジックが必要なのだと思う。

『自省録』は相対的に分かり得ぬものに対するつきあい方を提示している。 当時有効であったように、自らの卑小な能力の範囲で倫理的に行動することの先例として今なお有効な面がある。

しかし、彼が敵視した懐疑精神こそその後の人類発展の主要因であり、たとえばペストへの処し方もその探索の延長にある。
実務家であったとしても科学的合理性とそのリテラシーを第一に追求すべきであり、もはや文字どおりストイックであれば足りるとは言えないのだ。

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