物事を柔軟に見るポイントを振り返るなかで、「スキル以前にそもそも気の持ちようが違うのではないか?」という疑問があった。
世の中を見渡すと、頭が柔軟な人とそうでない人は二極化している。頭がカタい人が柔らかくなった例やその逆はあまり聞かないように思う。
頭が柔らかいという印象はどこからくるのだろうか。
世界を「変えられるもの」と見られるか
思考の柔軟性や、クリエイティブな発想、ユニークな物の見方などは、結局はひとつの共通する態度から生まれてくるように思う。
それは 世界を変えられる対象として見られているかどうか ではないか。
世界というと話が壮大かもしれないが、身近なことから社会の仕組み全般まで環境すべてを指す。
「変えられる」という認識は、「変えてやる」という意気込みとは違う。「変えてやる」は変わらないことを前提としている。
あくまで意識せずに伝わってくる印象・感受性がポイントだ。
意識の差はどう現れるのか?
世界を「変えられる」派と「変えられない」派はあらゆる物事の見方が根本的に違う。
「変えられない」派の人たちは、“一般的にそういうもの"とされている常識に沿って動いている。
一方、「変えられる派」は、変えたいことにアプローチする。
その差は感性や個性といった才能のちがいとして見過ごされることが多いが、もっと日常的なところにも現れる。
たとえば、掃除は分かりやすい例だろう。
「変えられない」派は、掃除といえば拭き掃除、しかも机や窓を、というように行動が限られる。
「変えられる」派は不要なものを探したり、レイアウトの変更を考えたりする。
掃除には明確なルールはないので、人によって変えない行動と変える行動できれいに分かれる。
どのように見方を変えるか
「変えられない」派が「変えられる」派に乗り換えるためには、 身近なものごとが「どのようにして今のような状態になったのか?」をよく知る ことが重要だと思う。
変えられるものごとは、“行きがかり上そこにある"というパターンが多いものだ。
いまある世界は、さまざまな経緯があってたまたま現在の形をとっていることを実感できれば、別のきっかけによって「当然変えられる」という見方ができる。
自分が関わらなくても世の中が時々刻々と微細な変化を続けているという実感を持てれば良い。
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