CIVILIS

2020/04/24

間抜けなことになってしまったなあ、と思っている。

皆それぞれの立場で日々努力をしてきたつもりになっている。
そうして今ある社会システムは、世界の津々浦々に効率的に流行病を伝播するものでもあった。

新型コロナウイルスは、ウイルスの種類・伝播ルート・防疫いずれの点でも2002年のSARS第2幕であり、事のなりゆきは新型ではなく、見たことのある景色だ。
この一事が大事ではある。そして同様に、温暖化であったり、超高齢化であったり、ソブリンリスクであったりと、一事が万事でもある。

これらはみな、社会、とくに経済の技術的発展から生まれた問題だ。
皆それぞれの立場で日々努力をしてきたがために、じっさいには存在している問題を見ないことによって着々と進展している不都合な真実。

役割分担がうまく行っているなら、それぞれの持ち場で頑張るだけで良いが、どうやらそうではない。

予期された失敗

経済学の基礎的な知識として 市場の失敗政府の失敗があり、なぜそのような展開になるのかについてはおおむね安定した見方が昔からある。

なお、Wikipediaは日本語版をリンクするが、英語版を見ないといけない。かつて日本は世界一の翻訳大国だったが、すでに国力が落ちている。英語ができなければ周回遅れだ。

周回遅れという見方も良くない。
世界の最先端にキャッチアップして勝ち組になる、という概念は、市場の失敗に含まれている。
それだけでは足りず、その先に行かなくてはいけない。

繰り返しになるが、市場の失敗・政府の失敗は、多くの人が深く理解する必要がある。 簡略化することは良くないが、明確化のため主要因を挙げれば「理性の限界」(bounded rationality)か。

つまり、勝ち組も負け組も等しく相応に無能である。
人間は無能なので、効用を最大化しようとしてマイナスの効用を得る展開になる。
そのとおりのことになっていて、間抜けなことになってしまったなあ、と思うのだ。

こうして生まれた不都合な真実は、ゆくゆくは負債として認識され、経済システムの外から税金のような形で賦課されていく。
それすらもできなければ、眼前に荒廃した光景が広がりゆくだろう。

市民として自分の頭で考える

高度なビジネスを実現することが社会を良い方向に前進させる、といった幻想がつい最近まで自分にもあった。
それはおそらく、イノベーションがビジネスとセットで議論されるからなのだろう。

シュンペーターに始まるイノベーションの定義は、単に他の要因で説明できる変数の残差ではなかったか(原典にあたっていないので不正確かもしれない)。
ここまで見てきたように、大前提として経済学には物ごとの一面しか評価していない自覚がある。

公害や熱排出、少子化バイアスといった外部経済のデメリットがイノベーションをきれいに相殺しているのだとしたら、ビジネスという活動の質が低い。

可視化・言語化・数値化によって認識を誤ってきたのだろう。
見たものが全てであるかのような錯覚や、書き表したものが適切に語り尽くせているような錯覚。

定量化の罠により、最初の一歩目で誤り、その後のプロセスで修正されることもない。

さて、CIVILISとは、ラテン語で「市民の」という語なのだそうだ。
企業や政府といった視点で物を考えることの限界、崖っぷちのいま、市民の視点を回復することが必要だろう。

市場経済が浸透した結果、専門家がサービスを提供し、顧客が消費する、という役割分担の意識が強くなり過ぎている。
この形態では、全体が危機を迎えたときに瞬時に供給がパンクする。

人類の長い歴史を経て、どうやら最後に残されたテーマは「自助努力」のようなのだ。

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