「書かない組織は必ず衰退する」という共通の特徴を見て来ている。書くという行動には拒絶感があり、それが強いほど落ちていくスピードも速い。
この現象は人類の文明文化にとって普遍のパターンに見えるため、多角的に整理する価値があるように思う。
サバイバルの厳しさ
衰退する直接の理由は、競争力を失うからだ。生き残る理由がなくなって消えゆく。
ビジネスはサバイバルのすべてではないが、ビジネスには経営学があり堅牢な仮説を得られる。
経営学では、1980年代にエクセレントカンパニーが持つ「持続的競争優位」が注目を集めたが、90年代以降「持続的」の賞味期間がどんどん短くなっているという観測に変わってきた。
持続的競争優位に普遍性があるならエクセレントカンパニーはエクセレントであり続けるはずだが、現実問題として主役の交代劇が進んできている。
いまでは、法人の寿命は自然人の寿命よりも短いのが一般的になっている。
生き残る積極的な理由を持ち続けなければ消え去ることの方が基本形になったのだが、そのようなシビアな見方をする人はきわめて少ない。
金融市場による進行の歪みも認識のズレに拍車をかけている。
頭を使わなくてはならない、という結論
市場経済のサバイバルについては、持続的競争優位や参入障壁といった個別の属性が無意味化している。
それに代わって必要な条件として見出されてきたものは「知的創造」である。
つまり頭を使っていないということが、消滅の直接の理由になる。
冒頭の「書かない組織は必ず衰退する」という命題は、ある特化した現象として整合している。
ビジネス活動を「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の2つに分けたとき、勝者のゲームを戦えるような頭の使い方をしなければ消えて当然という言い方もできる。
蛇足ながら、この2つはタームである。
たとえばPDCAサイクルは敗者のゲームのロジックと捉えられ、PDCAを完遂しても勝者のゲームのロジックには貢献しないため、生き残るどころかジリ貧が約束される、という見方も成り立つ。
競争優位や参入障壁程度の頭の使い方を除外したうえで、さらに残差としての「知的創造」の水準がある、ということを意識しなくてはならない。
大変きびしい。
メディアの再解釈
ここでミクロのメカニズムに目を向け、「書く」ということと知的創造の関係を考える。
ドキュメントや文書ではなく「書く」と表現しているのは、情報伝達やメディアの認識を修正すべきだという意図がある。
現代の大方の見方では、発信する人から受信する人に情報が流れるイメージを持っていると思う。文書は流れる情報が乗ったメディアということになっている。
そのメディアとして、声や紙やデジタルデータという手段があり、それぞれに優劣があるような話になっている。
僕の観察によれば、この通説モデルは完全に誤っている。
最大のポイントは、メディアは刺激に過ぎないことだ。受信する人がその刺激を受けて受信者の中にある情報を呼び起こして構成する。
受信者の中にある情報とは、受信者が発信できる情報でもある。つまり受けとった情報は、発信者が語る内容ではなく、むしろ受信者が語る内容に近い。
となると、せっかくのメディアも「情報が流れる」ことは実際にはあまり起きない。情報は流れない、と言い切った方がむしろ適切だ。
「伝える」という風化作用
自然現象で無に帰す力を「風化作用」という。
岩石などが、風や熱や水の力を受けて元の形を失なうプロセスを指している。
情報の伝達や共有も、各プロセスで変質するから風化作用として機能する。
この点についてはメディアによる差はなく、「書く」ことによる優位性はとくにない。
情報伝達を素早く正確にすることはサバイバルに有利だと捉えられているのではないかと思う。
しかしそれは違う。
正確に伝わった情報は、受信者の中で確実に風化される。
人による伝達、共有じたいが風化の現場であり、人が介在する、増えることが風化を早め、衰退を招いている。
変質がラッキーな方には作用しないのは、人間の存在コストが高いからだ。
自重を支え切れなくなることが衰退の確実性を高めている。
「書けない」というフロンティア
まとめると、情報を受信する際の風化により衰退に向かうという構造になっている。
風化の度合いは発信する能力で決まるから、「書く」ことが可能ならサバイバル能力が上がる、という関係と考える。
「書く」ことを特別視しているのは、1つには人類のフロンティアが書くことによって切り拓かれてきたからだ。
また、これまでの観察では、「話す」ことに偏重する人物は自分の意見を持っておらず、外部の何かを支持・拒絶することしかできていない。
外部の何かを参照することは、知的創造になり得ないのだろう。
人々が注目していない点に着目し構造化する能力が問われている。これは勝者のゲームの前提だ。
だから書くことが1つの試金石になるのだと思う。
「書かない組織」は、書くプロセスを怠っているのは間違いないのだが、実際問題としては書く能力がない集団でもある。
残念ながらおそらくプロセス面の解決策はない。書くことを避けている人が書けるようになった例は見たことがない。
苦痛に耐えられない、イライラして考えがまとまらない、アイディアが広がらない、フレーズに興奮して構造をとれない、考える意欲がわかない、独立した自分の意見を持ちづらい、といった個々の理由は努力で克服しづらいのだろう。
すべての人が「書く」ようになることは今はとうてい現実的ではない。
だから暗黙知・形式知のSECIモデルはファンタジーであり、現実には風化の方が頻発している。
書きうる人物は書かねばならない。